資料 / 近代水道写真館

東京都水道歴史館には、明治時代から現代までの東京水道にかかわるさまざまな写真が収蔵されています。

東京水の源である奥多摩の水源林管理の様子や、貯水池や浄水場など水道施設の写真、水道鉄管埋設などの様々な工事写真など、その総数は数万点に及びます。

ここではその中から選りすぐった写真を、10のカテゴリーに分けてご紹介いたします。

水源林

東京では近代水道の創設以来、その水源である多摩川の水量や水質の保全が課題となっていた。そのため東京府では明治34年(1901)3月、日原川流域の民営林を保安林に指定するとともに皇室の御料林8,500町歩余を譲り受け、水道水源林としての経営を開始した。明治43年(1910)には水源林の管理が東京市に移され、「東京市水源林事務所」が設置された。市では当時荒廃していた上流部の造林を行い、機能的な経営を目指して周辺の民有林を買収するなど、計画的な水源林経営を行った。現在は東京都水道局が「水源かん養」「土砂流出防止」「水質浄化」の三つの機能を守ることを目的に継続的に管理を行っている。

小河内貯水池

小河内貯水池(小河内ダム)は、一般には奥多摩湖の名で知られている。東京市水道では大規模な貯水施設として、大正時代~昭和初期に村山・山口貯水池(多摩湖・狭山湖)を築造したが(第一水道拡張事業)、東京の発展は著しく、ほどなく原水の不足が懸念される状況となった。そのため、新たな貯水池として計画されたのが小河内貯水池である。第二水道拡張事業として実施された小河内貯水池の建設は、昭和13年(1938)に開始されたが、昭和18年(1943)には太平洋戦争の激化によって中断された。戦後、昭和23年(1948)に再開された工事は、同28年(1953)3月にダム本体の定礎式、その後は順調に工事が進み、昭和32年(1957)11月についに完成を見た。その規模は高さ149m、有効貯水容量18,540㎥(令和3年現在)におよび、都内で使用される水の40日分を蓄えることができる現役の貯水施設である。

村山・山口貯水池

村山貯水池は多摩湖、山口貯水池は狭山湖の名で知られる、東京水道の水源として作られた人工湖である。東京の近代水道は、淀橋浄水場の完成(明治31年・1898)した創設時に既に水量の不足が懸念されており、早速明治45年(1912)に増強計画が決定した。これが「第一水道拡張事業」と呼ばれ、村山・山口貯水池と境浄水場の建設を主眼とするものであった。村山貯水池は上・下の二つの貯水池に分かれ、上貯水池が大正13年(1924)、下貯水池が昭和2年(1927)に完成した。山口貯水池は昭和9年(1934)の完成である。ともに多摩川から導水管(羽村・村山線)で水を引き入れて貯水し、境浄水場・東村山浄水場に導水している。近代水道100選(昭和60年)や土木学会選奨土木遺産(平成19年)に選定されている。

淀橋浄水場

淀橋浄水場は、明治31年(1898)12月1日に通水を開始した東京近代水道の中核施設である。江戸時代に造られた玉川上水から、新たに設けられた新水路を経て原水を引き入れ、沈澄池・濾池で浄水したあと、ポンプによって圧力をかけて市内に送水した。昭和40年(1965)に廃止となり、その機能は東村山浄水場へ移された。

境浄水場・和田堀給水所

境浄水場・和田堀浄水池は、村山・山口貯水池とともに第一水道拡張事業の一環として建設された施設で、大正13年(1924)に第1期工事が完成した。村山貯水池から境浄水場の導水管を村山・境線、境浄水場から和田堀給水所の送水管を境・和田堀線と呼んでいる。その後第2期工事が行われ、境浄水場は昭和10年(1935)3月、和田堀浄水池は昭和9年(1934)に竣工した。

金町浄水場

金町浄水場は、大正15年(1926・昭和元)「江戸川上水町村組合」の施設として給水を開始した。その後、昭和7年(1932)の東京市拡大に伴い、東京市水道に統合され、数度の拡張を経て現在も使用されている。江戸川に設置された2基の取水塔は地域のシンボルとして親しまれており、近代水道百選(昭和60年)に選定されている。東京で初めて高度浄水処理が導入された施設で、平成25年(2013)にはすべての水が高度浄水処理によるものとなった。

旧隣接水道

昭和7年(1932)、東京の都市化に伴って東京市域が旧15区から隣接5郡82町村の範囲に拡大された。これに伴って、周辺町村で独自に経営されていた公営水道が東京市水道に統合されることになった。また他に水道会社によって経営されていた民営3水道も、その後昭和20年(1945)までに買収されて、現在の都心部の水道網の原型が完成した。統合・買収前の主な水道としては金町浄水場を擁する江戸川上水町村組合、野方配水塔で知られる荒玉水道、駒沢給水塔で知られる渋谷町水道などがある。株式会社のひとつ玉川水道株式会社は、多摩川の調布取水堰から取水、玉川浄水場を設けて配水を行っていた。

羽村堰(はむらせき)・玉川上水・神田上水

東京の近代水道は、江戸時代以来の上水の流れを汲み、一部にはその施設が継承されている。その代表的なものが羽村取水堰で、これは玉川上水が江戸に引かれた際の多摩川からの取水口として、江戸幕府によって造られたものである。近代にいたりその材質は変化したものの、基本的な構造はそのまま現在に至っている。そこから延びる玉川上水は、近代水道開設後も淀橋浄水場への水路として利用され、一部は現在もなお東村山浄水場などへの導水路として活用されている。中流域の水路は史跡「玉川上水」として、貴重な文化財として保護されている。神田上水は、現在その姿は失われてしまったが、明治期までは現役の水道施設として利用されていた。現在の神田川からの取水口である関口大洗堰などが写真として残されている。

工事写真・設備・その他

東京都水道歴史館には、近代水道の歴史を物語る数々の工事写真や施設写真が残されている。主な施設は別に挙げたが、その他にも市中のさまざまな施設が造られていく様子が写真として残る。中でも河川を横断する水管橋や伏越は大規模な工事が多く、興味深い写真が多い。変わったところでは明治39年(1906)にロンドン水槽協会から東京府に贈られた「馬水槽」(新宿駅東口に現存・新宿区指定文化財)の、寄贈当時のものと思われる写真や図面が含まれる。

震災・戦災・渇水の記録

東京の水道史は多くの災害との戦いの歴史でもある。大正12年(1923)9月1日に発生した関東大震災では、都心部の多くの給水管や給水栓が被害を受けたほか、淀橋浄水場などでも被害が報告されている。これより2年前の大正10年(1921)の龍ヶ崎地震では、玉川上水路から淀橋浄水場へ通水していた新水路が崩壊し、大規模な断水、洪水の被害をもたらした。太平洋戦争での施設の被害は軽微であったが、都心部の給水栓は甚大な被害を受けて漏水率は一時80パーセントに達したと言われている。災害とは異なるが、水道の危機として渇水がある。大都市東京では、常に必要十分な原水が確保できるとは限らず、気候変動によってたびたび渇水に見舞われてきた。東京近代水道創設後最初といわれる昭和15年(1940)の渇水をはじめ、太平洋戦争後もたびたび渇水に見舞われている。特に昭和39年(1964)の渇水は深刻で「東京サバク」「オリンピック渇水」と呼ばれた。