(北佐久郡)龍雲寺文書 1~3 写

資料コード 03OD0622209501
タイトル (北佐久郡)龍雲寺文書 1~3 写
分野 歴史
場所(市町村名) 佐久郡
制作年(西暦)
制作年(和暦)
時代
制作者
制作者(ヨミ)
大きさ
資料解説 岩村田の太田山龍雲寺、文明15年(1483)祥貞禅師が曹洞宗に改め開祖となり、明応3年(1495)旧地端下平を棄て城西に寺を再造した。佐久に侵攻した武田信玄は龍雲寺の桂室和尚の無礼をとがめて追放し、越後国雲洞院から新たに北高禅師を迎え、龍雲寺を全面的に後援した。年次不詳の条々には、「①愚老(北高全祝)は日本国の曹洞宗を引き継いで来、このことを信玄公が認めて諸流禅寺の統括者に任じてくださった。②信玄公の領分内で法度が行なわれるよう私に言いつけられ、御自筆の条目を下さり、内裏の上聞にも達し勅状を頂き、今もって法度を怠らずにいる。③先年、壱千人の集会を催したが、これは全く自分の力ではなく、皆信玄公の御威光である。」これを見ると、信玄がいかに龍雲寺を後押ししたか、北高全祝和尚をいかに優遇したかが判明する。 龍雲寺衣鉢閣下あて勝頼書状は、天正2年(1574)3月7日付で。信玄の父信虎が一昨5日逝去したことを伝え、甲斐大泉寺で葬礼を執行するので、遠路といい御老体誠にご苦労ですが万端お願いしたいので飛脚を以て申し上げる、とある。また、天正6年2月23日の勝頼書状は、祖父信虎の七年忌を甲斐大泉寺で行おうとして北高全祝和尚を甲府に招いたところ、和尚が病気で応じられなかったので、余寒の時節なので御油断なく御保養されるのが肝要ですと。天正10年(1582)5月の瀧川一益之書状は、岩村田の龍雲寺が小諸に移転するというので新たに寺領168貫文寄進すると。慶長3年(1598)3月、仙石越前守が龍雲寺へ100貫文寄進状が2通ある。慶長4年3月1日付の文書は仙石盛長が寺領100貫文を安原村内で龍雲寺へ寄進。年次不詳12月24日付盛長の書状は、近年虚官の僧侶が多く勅命で諸国に糺すほどだが、あなたの書簡には感服し仏法繁栄宗門の鑑也、黄金を頂き感謝する。 龍雲寺と武田氏の関係は武田信玄の父信虎(1494~1574)の時代からあり、この史料中、①年次不詳8月13日の書状は、信虎から龍雲寺長老へ宛てたものである。②「定」は元亀3年(1572)2月4日、信玄が岩村田の御家人達に命じて、宿中のものに龍雲寺の僧堂屋根ふき用萱を運び上納させた令書である。③元亀3年仲陽晦日の信玄書状は、龍雲寺の北高全祝和尚を諸流禅寺統括の僧録という大役とし、門風を挙げよと命じている。④天正4年(1576)2月24日の定は、勝頼が龍雲寺と佐久郡落合慈壽寺及び上州箕輪長純寺領の諸役を免じたもの、衣鉢閣下(北高全祝)宛。⑤は④と同日付定、慈壽寺とその塔頭は龍雲寺の末寺だったが中古に離散した、それを父信玄が元に戻したのだから末寺として勤めよ。⑥天正7年卯月5日付勝頼の定は、龍雲寺の伽藍再造のため小県の大工の半部を使え、長沼衆に断り20日間の使役を許す、というもの。
二次利用条件
コピーライト 長野県立歴史館
施設名 長野県立歴史館