真田三代記略 写

資料コード 03OD0622100700
タイトル 真田三代記略 写
分野 歴史
場所(市町村名) 小県郡
制作年(西暦)
制作年(和暦)
時代
制作者
制作者(ヨミ)
大きさ
資料解説 清和天皇第3皇子貞元親王29代の真田弾正忠幸隆は小県郡真田郷松尾城に住んでいた。29代以後は、代々真田氏と称した。29代幸隆までは名前のみを記し、事蹟は省略する。始祖貞元親王―2代幸恒―3代幸明―4代幸明―5代幸盛―6代幸家ー7代幸勝-8代幸親―9代幸広-10代幸氏―11代幸継―12代幸春―13代幸重―14代幸康―15代幸遠―16代幸永-17代幸昌―18代幸信-19代幸定―20代幸秀―21代幸守-22代幸則―23代幸義-24代幸代―25代持幸-26代氏幸―27代幸棟―28代幸綱-29代幸隆とつながる。29代幸隆は、永正10年(1513)海野の里に生まれ、海野小太郎と称し、後に真田郷松尾城に移住し、真田氏と称した。幸隆は葛尾城の村上氏に敗北を喫し、上野国の箕輪城主長野業正を頼み、のち甲斐の武田晴信の招きに応じた。その後、天文16年(1547)8月、小県上田原において武田と村上の合戦があり、ここで幸隆は大いに奮戦し、合戦に功があった。このため、村上義清は越後に墜ち行き長尾景虎に寄食し、旧領に復帰しようはかった。天文・永禄年間(1532~70)信濃において武田と上杉は度々合戦を交えたが、毎回幸隆はこの戦に参加し、功労があった。天文19年(1550)7月、晴信は幸隆に多年の功労により諏訪方300貫を与え、さらに武田の家臣横田氏の遺跡を合わせ1000貫の地を与えた。同20年2月、晴信剃髪して信玄と称したが、この時、幸隆も出家して一徳斎と号した。        弘治2年(1556)8月、幸隆埴科郡尼飾城を攻め落とし、元亀3年(1572)上野国白井の砦も攻め落とした。その他数度の戦いを経て天正2年(1574)病没した。30代信綱。天正2年父幸隆の遺領を受け,武田氏に属した。天正3年5月の三河長篠の戦いで大敗し、他の諸将と共に討死した。31代昌幸。天文16年生まれ。幸隆の3男。兄2人の長篠での戦死に伴い兄信綱の名跡を継ぎ、真田安房守昌幸と称した。武田氏滅亡後は、徳川、北条、上杉の諸将が勢力をもつなかで、昌幸はあるときは上杉、あるときは徳川に味方し、あるときは秀吉の仲裁で勢力を維持した。徳川と上杉が対立するなかで、昌幸は小県郡の統一とその拠点となる城の構築を求めた。結局、千曲川に面した海士ヶ淵の断崖上に上田城を築いた。北条が滅亡し、秀吉が病没するなかで、慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦となるが、その対立の情勢が厳しくなる中で、真田父子3人は犬伏(現佐野市)で密談し、結局は昌幸・信繁(幸村)は石田方の西軍、長男信之は家康側の東軍に味方することになった。家康の長男秀忠は、上田城の真田昌幸・信繁親子を攻め、後直ちに関ヶ原に到着予定であったが、真田軍の抵抗にあい、到着が著しく遅れ、面目をうしなった。上田城で頑強に徳川側に抵抗した真田父子は、信之の懸命な嘆願により、高野山のち九度山に流された。大坂冬・夏の陣(1614・15)では、真田信繁(幸村)は、秀頼側に参加し、その懸命な奮戦で、大いに家康側を悩ませたが、最後は戦死した。幸隆・昌幸・幸村の真田三代の素描である。
二次利用条件
コピーライト 長野県立歴史館
施設名 長野県立歴史館