多聞山大英寺縁起 写

資料コード 03OD0621600800
タイトル 多聞山大英寺縁起 写
分野 歴史
場所(市町村名) 埴科郡
制作年(西暦) 1817
制作年(和暦) 文化14年
時代 江戸
制作者
制作者(ヨミ)
大きさ
資料解説 天福寺は天福元年(1233)の草創で、毘沙門天王垂迹の霊場である。坂木の戦国武将村上義清の家臣出浦某ら4人の家臣が志を一つにして海野興善寺六代大英撮禅師を招くよう領主に願った。義清、これを容れて多聞山大英寺を天正10年(1582)建立した。その後、寺運が衰微していく中で、ときに長谷川安左衛門が坂木令となり、再興を図った。大英寺には縁起がないので、ここに同寺の住持の住時の入院・退院と示寂の年月を記す。開山は天正10年大英撮禅師で、退院は同19年、同年3月示寂。2代仙庵鶴禅師、天正19年開堂、慶長12年(1607)退院、示寂。3代補外綴禅師は慶長12年開道、元和元年(1615)退去、同2年示寂。4代端室太禅師は元和元年開堂、寛永2年(1625)退去,同5年示寂。5代来翁雪禅師、明暦3年(1657)退去、同年2月示寂。6代太岩宗禅師、明暦3年開堂、元和((天和カ))2年(1682)退去、同4年示寂。7代は現住戒学孝年である。このあと、文化14年(1817)3月付の大英寺の「乍恐以書付奉願上候」の願文が続く。その要旨は、「大英寺は往古天福寺と申し、真言宗で当所の領主村上義清の祈願所であった。義清が甲州武田晴信と確執の結果破れ、一族が天福寺で焼死し、一時に灰燼に帰した。のち、義清の家臣出浦某ら4人の請願に寄り一宇が創建された。多聞山大英寺と号し禅宗になり、現住地に建立致し、それより天福寺の古寺跡は、32年以前の御検地の節、御年貢地となり、その結果、大英寺は難渋至極に陥ってしまった。何卒、御勘弁をもって往古の通り御高除の地に戻して下さい。格別の御憐憫を以って願の通り仰せ付けて下されば、大変有り難いと思います」。この願文には、坂木村惣役人連印の奥書がつく。
二次利用条件
コピーライト 長野県立歴史館
施設名 長野県立歴史館