川中島史料 河中島之記 写
資料コード | 03OD0621501300 |
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タイトル | 川中島史料 河中島之記 写 |
分野 | 歴史 |
場所(市町村名) | 更級郡 |
制作年(西暦) | |
制作年(和暦) | |
時代 | |
制作者 | |
制作者(ヨミ) | |
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資料解説 | 「川中島史料」は、天文22年(1553)~永禄7年(1564)までの甲・越両軍の戦いの記録である。天文22年、村上義清、多年にわたる武田晴信との戦いで遂に敗れ、越後の景虎(以下、謙信で統一)を頼る。閏2月、謙信上洛。信濃を追われた村上・高梨・井上・須田・島津・栗田の諸氏、信州へ発向。武田晴信(以下、信玄で統一)も川中島に到着。11月、両軍衝突。天文23年8月、上杉勢8千、川中島に到着。甲州勢海津城に入る。両軍激突、手負人多数。謙信、信玄を二太刀切り付ける。弘治2年(1556)、3月越軍川中島へ。武田勢2万余も川中島へ。25日夜、信玄の陣にて兵糧の炊飯篝火、人馬の音騒がしく、越軍明朝の合戦を案じ、陣払いして千曲川を渡り、信玄の備えに切り込む。信玄本陣も破られ、甲州方板垣駿河守ら討死。その後の戦いで、両軍討死・手負い多数にのぼり、武田方の山本勘助など有力部将も死亡。弘治3年8月、謙信川中島へ出張、鶴翼の陣をはる。信玄も2万の人数を出し、双方千人内外の戦死者を出す。永禄2年4月、謙信再度上洛し参内。 翌年3月、謙信関東へ。同4年、謙信小田原表へ発向。同年8月信州川中島へ。武田勢も西条山の下まで陣取り、海津城へ入る。双方入れ乱れて戦う。謙信は犀川を背に夜も陣取りいたし、配下の武士を西条山へ遣わし、陣小屋を焼き払う。その後も謙信は善光寺に逗留、越後に帰国。同7年、信濃口の野尻城にいた宇佐美駿河守生害、長尾政景も果てたので、謙信川中島へ出張る。信玄も出張。10日余の対陣、小競り合いで勝負なし。武田の家老たちは信玄を諌め、川中島四郡を謙信へ譲り、駿河表・関東筋・美濃口への攻勢を主張。信玄、家来同士の組討にて勝名乗りをあげた方が川中島4郡を支配するとの約束で勝負を挑み、謙信側の勝利となった。このため、村上義清・高梨政頼川中島へ帰り、以後武田と上杉の弓矢取り合いはなくなった。河中島之記 文化7年(1810)9月10日は、永禄4年(1561)の川中島の戦いの250年目にあたる。そのときの忠勇は八十島に満ち渡っている。山本道鬼入道の墓前に詣で、五烟ハ「霧深く薫るや二百五十年」と詠う。また、五姻は両角豊後守昌清の塚を詣で、千曲川の度々の増水で、其の形を流しているさまを見て、「其の侭の流れを手向けん秋の水」と詠む。諸名将の古い墓は、今は名所として残るが、五姻は、この情景を「綿植る畑も小せきも名所かな」と口ずさみ、寺尾村の渡りを越えて水沢村の典厩寺に詣で、川中島合戦の英雄武田信繁の廟に詣でている。春原幸前は、この同じ場所で「朝霧もおなじ昔にかわらねどけふおもひ出す菊の薫りハ」と詠む。このように川中島合戦250年にあたり、古戦場に残る数々の墓や塚にまつわる俳句・短歌・漢詩などが詠われて残る。 |
二次利用条件 | |
コピーライト | 長野県立歴史館 |
施設名 | 長野県立歴史館 |