震洪鑑

資料コード 02BK0104167887
タイトル 震洪鑑
分野 歴史 自然
場所(市町村名) 長野市
制作年(西暦) 1866
制作年(和暦) 慶応2年
時代 江戸
制作者 不明
制作者(ヨミ)
大きさ 25
資料解説 春の夜も更けて、大地しきりに振動し、その音強雷の発する如く山谷・平野鳴り響き、地は盃を傾ける如く、の地震状況の中で破却の家蔵が多数出た。松代中町・伊勢町・木町などが潰れ、御城内も大破損し、家老など藩士が陣羽織に身をかため詰所を固めた。  これが弘化4年(1847)3月24日夜におきた善光寺地震の始まりで、折から開帳中の善光寺町では、大勧進半焼、仁王門焼失、本堂は残ったけれども大半は損じ、旅人も焼死し、漸く26日の暮れ方、火事は下火になった。  犀川は同夜、更級郡山平林村虚空蔵山(長野市信更町)が大抜けで幅1里・高さ80丈余が抜け落ち、孫瀬・岩倉両村が崩れて犀川の流れを留めてしまった。これが崩れ落ちたとき、いかなる洪水に相成るや計り難く、川中島は勿論、川北・川東の人々は最寄の山家へ引き移った。また、犀川の小市船場真神山も抜け落ちたので、この場所を切り崩して、水防の土手普請を行い、松代藩は犀川の抜け崩れに備えた。その本陣を小松原裏天照寺山の麓に構え、家老恩田頼母以下の面々が詰めた。領民も男子15歳以上60歳までが土手普請に動員された。また、松平旗本領の代官東福寺源太夫も数百人を引率して川中島下堰水口に出張した。  一方、岩瀬・孫瀬両村の崩れで堰きとめられた犀川の自然ダムの水は、遠く上流に及び、今の安曇野市の領域にまで広がった。4月13日に至ってダムは決壊した。大洪水は犀川の水防土手をのみ崩し、あっという間に川中島・河北の村々に押し寄せ、飲み込んだ。  周辺の山々に逃げ込んだ村人は、立ち帰ってみれば、家財は流れ、親子・兄弟・夫婦が別れ、嘆き悲しむものもあり、残家は壁を流し、泥・藻屑が流れ込み、惨憺たる有様となった。全編を流れるものは、「生者必滅、会者定離」の仏教の無常観である。
請求記号 N453.2/4/
出版地 不明
出版者 岡村氏(写)
発行年月日 1866
ページ数 35丁
著作権者別称
著作権期限 1866
二次利用条件
コピーライト 県立長野図書館
施設名 県立長野図書館