改正平假名絵入 善光寺如来略縁起
資料コード | 02BK0104137252 |
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タイトル | 改正平假名絵入 善光寺如来略縁起 |
分野 | 歴史 習俗 口承伝承 |
場所(市町村名) | 長野市 |
制作年(西暦) | 1893 |
制作年(和暦) | 明治26年 |
時代 | 明治 |
制作者 | 不明 |
制作者(ヨミ) | |
大きさ | 22 |
資料解説 | 信濃国善光寺本尊阿弥陀如来三国伝来の来由を尋ねよう。昔、東天竺ビシャリ国(インド)に月蓋長者がいた。一子如是姫の愛に溺れ、大聖世尊の教えにも随わず、不善の行い限りなく、釈尊深く是を憐れみ、自身月蓋の館に赴くといえども、釈尊は帰された。 ここにビシャリ国中に疫病はやり、如是姫もこの病にかかり、月蓋大いに驚いた。天下の名医に見させても直らず、一族のもの衆知を集め、遂に大聖世尊の仏力にすがることになり、月蓋懺悔して釈尊の元へ詣でた。 釈尊は西方極楽国の阿弥陀仏を一心に唱えよ、さすれば、阿弥陀如来が月蓋の楼門に参り、大光明を放ち疫神を退治するであろうと。すると、如是をはじめ多数の病者が平癒した。 月蓋は感激のあまり、目連を竜宮城に遣わし、エンブダゴンを所望せしめた。釈尊は光明を以ってエンブダゴンを如来三尊となした。 如来は、1千余年を経て、百済国に飛び、百済にあること100年余、百済の聖明王に告げて日本に渡来させよと告げ、難波に着し給うた。欽明天皇の御代で、群臣にこの受け入れを諮った。物部尾輿は反対し、蘇我稲目は受け入れを主張した。天皇試みに稲目に如来を下し拝ましたが、この時より日本に悪しきこと重なった。これは異国の神を受け入れた祟りだとして、欽明天皇に奏上し、小懇田の仏殿を放火し如来を炎上させようとしたが、如来はいささかも損じることなく、返って光明を増した。尾輿、いよいよ怒り、如来を難波の堀江に投じてしまった。 たちまち、災禍が生じ、九重の玉殿、百官の館までが灰燼に帰し、尾輿も熱病のはてに命が尽きた。天皇大いに驚き、難波の堀江に勅旨を派遣した。如来、堀江から姿を現わし内裏に招じ入れられ、再度、蘇我氏の館に赴いた。向原に建興寺を建立して、如来を奉じた。欽明天皇のあと、敏達天皇となり、再度国に疫病が流行し、尾輿の子守屋は、これは彼の異像を祀った祟りである、として再度仏像の破却を敏達天皇に求め、建興寺に放火して仏像を焼き滅ぼそうとしたが、仏像は健在で、再度、難波の堀江に投げ込まれた。 敏達天皇は崩御し、用明天皇が即位した。天皇ことに仏法を信じた。尾輿、穴穂部皇子に一味し、反逆を企て天皇を廃そうと企てたが、朝敵となり官軍の厩戸皇子に射られ命を失った。厩戸、とりあえず難波の堀江に向い、如来に皇宮に帰り給えを告げたが、待つべき者ありとして、猶水底に沈み給うた。 これより先、用明天皇崩じ、崇峻天皇即位し、のち、推古天皇の御世となり、厩戸皇子が皇太子となり、仏法を盛んにした。推古天皇の御宇10年、信濃国司交代に当り、伊那郡麻績里の住人本多善光も帰郷の供を命じられ、処々巡回して難波の堀江を通行したところ、俄かに水底から光るものが出で、善光の背に飛び乗った。汝、驚くことなかれ、汝、過去において月蓋長者なり、百済国では国王たりとして、其の深い因縁を告げた。 善光感涙して如来を伊那郡の地に請じ入れた。のちに如来、善光に告げて居を水内郡芋井郷に移すことを告げた。そこに大伽藍を建立し、善光の諱をもって善光寺と名づけたのであった。 巻末に信濃善光寺如来御詠歌をつける。 |
資料別書名 | 善光寺如来三国絵伝縁起 |
請求記号 | N181/18/ |
出版地 | 上水内郡長野町 |
出版者 | 北澤磯五郎 |
発行年月日 | 1893 |
ページ数 | 9丁 |
著作権者別称 | |
著作権期限 | 1893 |
二次利用条件 | |
コピーライト | 県立長野図書館 |
施設名 | 県立長野図書館 |